ものを書くということ

ものを書く動機についての私感と、それが生み出す誤解について書き記しておきます。また、蛇足として、とりあえず公開する、伝えてみる、という事の意義についても若干触れてみます。蛇足の内容については誰かがもっと巧く書いていたような気がするのですが、どこで見たのか思い出せませんでした。

動機

私がWebで文書を公開する動機は、見てもらうことではありません。見てもらうことは単なる結果に過ぎないのです。では何故書くという面倒な行為を行うのか。それは伝えたいことがあるからです。

伝えたいことの重要さや内容には大きな差があります。ふと町を歩いている時に思いついたことを伝えたくなることもあります。ある文章を読み、その内容を伝えたくなることもあります。もしくは、僕は生きているよ、という事を伝えるためだけに内容のない文書を公開したくなることもあるでしょう。しかし、どのような場合でも前提として伝えたいことがあります。では見てもらうこととは何なのか。それは伝えるという行為が完了するための、必要条件に過ぎません。

人によって様々思うところはあるでしょうから、これが一般論であるとは思いません。しかし、少なくとも私には、見てもらうために何かを書く、という事はできないのです。もちろん、見てもらいたいから書く内容を探している人が居ることも理解しています。しかし、そんな真似、僕には出来ません。

過去からの類推

文章が書き溜まると、今後どのような内容を書くか類推されるようになります。これは必然的なものです。

見てもらうことが動機となっているのであれば、読者の期待する内容を未来永劫にわたって書き進めることになるのでしょう。

しかし伝えることが動機となっている場合、期待する内容を未来永劫に渡って書き進めるとは限りません。伝えたい内容と期待される内容が一致することの方が稀であるといえます。その人の伝えたい内容全てが公開されるわけではありません。ですから、公開される内容は何らかのフィルタを通過したものに限られます。フィルタが細かければ、伝えたい内容と期待する内容が一致するようになるわけです。

期待になるべく添おうとした結果が、ブログの分散なのだろうと個人的には理解しています。一人が様々な場所で、多数の細かいフィルタを用意して情報を公開すれば、期待に添ったエントリーを公開できる可能性は高まります。しかし、私はそれをやりません。文書をなるべく1カ所に集めておきたいのです。それによって、私が探しやすい仕組みになっています。伝えたいと同時に、私個人が探しやすくしておきたいのです。伝えたいのは紛れもない事実です。それが公開する動機ですから。しかし、広めたいという思いは大きくありません。言うなれば、情報を取得可能にしておきたいというのが動機なのかもしれません。

ここについて言えば、定期的に確認してくれている人が何人か居るわけですから、何らかの期待を抱かれている、ということは私も理解しています。しかし、その期待が何であるかは定かでないですし、それが何であるかには興味がありません。仮に何が期待されているか知ることになっても、私はその期待に応えようとしないでしょう。私にとって、義務としてものを書くことは苦痛なのです。期待に応えるために書くという手順は、ものを書くことが半ば義務化しているように私は思えてなりません。

従って、伝えたいという意欲が失われれば、その内容を公開することはありません。しかし、意欲の失われた内容について期待されている事が明らかになった場合には、その期待が誤っている旨を伝えたいという動機が、別に生まれます。

なんで期待通りの事を書いてくれないんだ、と怒る人がもし居られましたら、そのページを見る事自体を止めた方が幸せになれるでしょう。わざわざ貴重な時間を割いて怒りをこみ上げる必要はありませんし、怒られる側も気分が良くありません。見ること自体を止めるのが何らかの理由によって損失であると思えるのであれば、その期待が誤っていたのだと割り切るしかないでしょう。怒るのは労力の無駄ですし、それを顕わにしても何も得ることは出来ません。

とりあえず書く

思ったことを書いてみることには大きな意義がある、と考えています。私はこれが下手だと自覚していますが、それは置いておくことにしましょう。

書き続けられるかどうかなんてことはどうでも良いのです。極端な話、たった1つの文書を公開するだけで止めてしまっても良いですし、連続した文書の中途半端な一部分だけでも良い。それだけでも十分な価値があります。

どんなに稚拙な内容であっても、どんなに独りよがりの内容であっても、何らかの事を伝えることは出来ます。場合によっては助けの手が差し伸べられるかもしれません。

しかし、自信がないのであれば、それを併せて書いておくべきでしょう。それによって訪問者が見る目も変わりますし、場合によっては誤解を与える可能性を低減させます。

それが顕著に表れる一例に翻訳があります。翻訳はある程度の確証をもってすべきであると考えます。もちろん人は完全ではないですから、間違いもあります。自分だって例外ではありません。しかし、ひとたび翻訳を公開すると、原文を当たる人が減ります。これを忘れてはなりません。翻訳者は、誤訳を広めない努力を最大限して然るべきです。全体的に自信がないのであればその旨を記載すべきでしょうし、良く分からない箇所があるならばその旨を示しつつ原文を併記するといった対策をすべきです。これらの配慮は書いた本人や、翻訳文の読者に限らず、原文の著者にとっても重要といえるでしょう。

僕の場合はその原文を伝えたいと思ったら、なるべく書くようにしています。それによって、原文を知らなかった人へ伝えることが出来ますから。しかし翻訳の場合は、十分な時間を取れない場合には書きません。正確には、書けません。自分が脳天気に意見を公開するのとは違いますから。

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公開日時
2008年2月12日 午前2時40分30秒
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