SEOに取り憑かれた人たち、そしてそんな社会を生み出してしまった現実がWebを駄目にしてゆく。駄目にする……?いや、違うな。Webは終わった。
Googleを筆頭とした検索エンジンが全てものを言う、と言っても過言ではない時代になったと思う。Webの世界に限ってしまえばそれは揺るぎない事実となって久しい。ここでSEOに取り憑かれた人たちが引き起こす悲劇(喜劇?)の中でも有名なものを挙げてみよう。
校正よりも多様性。広くそしてバラバラに単語を散りばめて、目指すは類義語完全制覇。……もはやWebなんて、そんな世界。どうしようもないビジネスツールだ。
もはやビジネスツールと化したWebに洗脳された主導者が加われば、ユーザビリティを置き去りにするのは簡単だ。幸いにも構文チェッカは存在するが本文の内容を審査するシステムは存在しないのだから。
キーワードの羅列を含むタイトルなど愚の骨頂だ。短くまとめられたタイトルは理解に要する時間を短縮する。が、得てしてタイトルにはノイズがのっている。そんな使えない似非タイトルが暗躍しているが故に、外からタイトルを利用するサービスは使いにくくて仕方がない。
リンクテキストにキーワードを入れて更なるアクセス数アップを目指すのは常套手段の一つだ。結果リンクテキストは長くなる。キーワードを入れたいがために。その対極に位置するのは簡潔なリンクテキストだ。リンクを抽出して概要を掴む特定ユーザの利便性を劇的に高める。把握する為に十分であれば、余計な内容は少なければ少ないだけよい。一般ユーザにしても然り。
とある教典にはmeta
タグは検索エンジン専用のものであると示されているのだろう。要約文とは到底言えないような要約文が数多く存在する。キーワードの羅列に近い文字列を要約文と言い張るところもあるしね。概要を掴めない要約文では利用価値がない。要約文には活用される可能性があったはずなのに。もはやmeta
タグのdescription
による要約文は要約文として扱われない。SBSなどを見れば、直ぐに分かる。なんてあほらしい実装が行われていることか。
キーワードに表記揺れをやたら埋めるのがブームである。そんなもの機械が吸収すべきだというのに、ビジネスツールである以上、そんな対応を待つ時間はない。Time is moneyとはよく言ったものだ。
本文はまどろっこしい表記こそ素晴らしい。文章は長くする。単語はたくさん入れねばならない。割合と種類、バランスこそ重要だ。どれだけ馬鹿な検索エンジンを使っても多くのキーワードで訪問可能にしておくことが必要なのだ。多くの訪問者に来訪させることこそが全てなのだ。
一度訪問さえしてくれればどうでも良い。アクセス数は数値に表れるが、理解したかなんてどうでも良い。数値化されないのだから評価のしようがないではないか。きっと分かってくれている。どんな悪文でも何度も読めばきっと分かってもらえるのだから。……そんな幻想に溺れ、身を任せているようだ。
訪問者を招くためならば多くの表記揺れを是とする。訪問した人にとってその表記揺れは違和感を生み、記憶容量を無駄に占有するだけのノイズだ。人によっては理解が著しく困難になる場合もあろう。しかしそんなことはどうでもいい。来てくれた人はきっと分かってくれるから!
画像はほとんど全ての環境で表示される。だから良いじゃないかと言わんばかりにキーワードの無理矢理埋め込まれた画像の代替テキスト。なんと見苦しいことか。
見出しも何かしらの形で画像へ置換されることが多い。そうなってしまえば文字が表に出ない、単なる画像とまるで変わらない。むしろ検索エンジンに対する力を持っている見出し要素は格好の標的である。そう遠くない将来見出しだけ抽出して概要を掴むということも億劫な時代が来るのかもしれない。まどろっこしい見出しなんて目障りだ。
まぁ、そこまでひどいレベルに達しているサイトはあまりないけどね。
……そして結局普通のメディアになる。それはちょっと棘が生えただけのメディアだ。
検索エンジンはWebの理想型を元にして重要度を判定する、とされている。しかし踊り狂う人々にとって検索エンジンの実装こそ全て。相対評価される以上、理想を目指すことなど許されない。ビジネスツールだもの、当然である。
検索エンジンの奏でる魔性の奇想曲に踊らされる人々、ただただ続くいたちごっこ、それにもめげずひたすら立ち向かう人々。もはや尊敬の念を送りたくもなる。僕には真似できない。あまりにあほらしすぎて。
Webに於けるデータの全てが意味を持つようになり、意味を持たないデータが意味をなさなくなったとき、Webはまた僕に可能性を見せてくれるのかもしれない。もはや誤魔化しがきかない段階になったらならば、復興する。踊りようがなくなるのだから。でも、そこまでたどり着くためにあと何年かかるやら。Semantic Webの完成?いつの話?
あぁ、なんてくだらない、つまらない。この新しい電子媒体をベースとしたWebの世界が持つ可能性は限りないと感じていたけれど、これじゃもう無理だろ。Webは終わった。少なくとも、Googleの魔法に踊らされる人々が主導権を握り続けるのであれば、終わる。そして、きっと終わる。終わらない理由がないもの。
もちろんこういった状況に陥っているWebサイトでは、最低限のアクセス性が確保されている。検索エンジンという機械に読ませるためだ。目的は違うといえ、結果としてアクセス性が確保されたWebサイトを増やしたとも言えるだろう。しかしそれ以上の理想を実現する可能性をつぶされたことの悲しみは大きい。
まぁそうなる運命だったのだろうけどね。何を今更と言ってる人も多いだろうし、少し考えりゃ直ぐに分かることだったわけで。
Web制作は趣味に留めた方が身のためだなと感じる。これはまぁだいぶ前から思っていたのだけれど、更なる後ろ盾が付いた気がする。可能な限り理想を追求したがる人間にとって、Webとか呼ばれる世界はあまりに酷だ。
さっさとWebが2つに分かれてしまえばいいのに。そうなったら喜んで非ビジネスツールのWebに引っ越して、ビジネスツールに成り下がったWebをDISる。